やすぴか日記

日常の出来事と過去の思い出の記録

愛を残せると信じたい(父が残したコラム⑥)

 亡き父が残したコラムの原稿をブログ上に残し、それに対する補足と感想を述べたい。その6つ目を掲載する。

『無常の風は吹いている ー愛は残ったー

 S中尉は私を特にかばってくれた。終戦の年は寒かった。文字通り路頭に迷ってたずづねた中尉の家は閉じられていた。「志願してニューギニアで切り込んで死んだよ」隣の人の話に空を仰いだ私の鼻に小雪が落ちて消えた。四十年後。声帯切除で私はひどく落ち込んでいた。七十五才のKさんは「練習すれば食道から声も出るし、ガンの移転もほとんどない。ほら、こんなに元気です」と励ましてくれた。私がしゃべってみせないうちにKさんは死んだ。鼻面に無常の風はが吹き抜けた。』(父のコラムより)

 無常の風:人の生命を消滅させる無常の理法を、花を散らし灯火を消す風にたとえていう語(コトバンクより)

 老人や病人が自分より先に死ぬとは限らないし、自分が若い人や自分の子供より先に死ぬとも限らない。事故や災害で命を落とす人もいる。無常の風が吹いて、いつだれがどうなるかはわからない。親しい人やお世話になった人が亡くなるのはつらい。

 「人間は二度死ぬ。一度目は肉体の死、二度目は人々の心から忘れさられたとき。」という言葉がある。調べたら出典はあきらかではないようだ。元は仏教かユダヤ教なのかわからないが、過去のマンガや映画にもよく使われており、最近では「ワンピース」や「リメンバ・ミー」の中でも使われている。

 バチあたりを覚悟で言うと、亡くなった人が見守ってくれているとか、枕元に立つとか言うが、私はそんなことはまったく信じていない。人は死んだら無になると思う。ただし、残された人の心に思い出や気持ちが残っていることが、そういったものを見せているのだと思う。結局は同じことなのかもしれないが。

 父は無常を感じたが、世話になったS中尉や、励ましてくれたKさんの気持ちは父の中に残った。父はそういう意味で、副題に「愛は残った」としたのであろう。

 最近、渡辺徹さんや松原千明さん、高見知佳さんなど、自分と同年代の方の悲報を聞く。私もそろそろ終活を始めなければと、持ち物を減らそうとか、デジタル遺品をどうしようかとか、事務的なことばかり考えていたが、もっと大事なことがあるのかもしれない。

 私は誰かに愛を残せるだろうか。少なくとも、妻と子供たちには残せると信じたい。