やすぴか日記

日常の出来事と過去の思い出の記録

便利さと思い出のはざまに(父が残したコラム③)

 亡き父が残したコラムの3つ目を掲載する。父のコラムをブログに残すとともに、私の補足と感想を述べたい。

 <金は目的ではなかった 一日一日が財産>

『「五十年働いたが何も残らなかった」と私が言ったら。「サラリーマンは定年まで勤めれば成功だ」と言ったのはEさんである。小作農の三男であるEさんの夢は生まれた土地で自作農になることだった。敗戦というチャンスがやっていきた。Eさんは北海道で牛を買い名駅裏で密殺した。面白いように入る金で田畑や雑地を買いまくった。他人の三倍働いた。月日は移り、村は町となり市となった。「俺は死ぬまで寸地も売らない。百姓で死にたい」老農夫のなげきは深い。』

 文中にある「名駅」とは名古屋駅のことである。名古屋も空襲を受け、焼け野原になったが、名古屋の戦後の復興のスピードは早かった。そんな中でもおそらくEさんは、がんこに土地を売らずにいたのであろう。

 どんな時代でも都市が発展するには区画整理が必要で、昔からの土地を手放さざる得ない人たちがいた。高度成長期しかり、バブル期もしかりである。しかし、がんこに土地を売らない人もいた。住み慣れた土地を手放すことはつらい。金には変えられない。

 かなり前の話だが、最寄りの京王線が延伸するときに、おそらく最後までがんばった人がいたのであろう、途中まで高架橋が家の手前まで作られて止まっている状態だったのを見たことがある。

 最近、私がよく通る道路があるが、拡幅する予定があるのだろう、通るたびに道の両側の取得土地が着実に増えている。この道路は交通量が多いため、広くなると渋滞もなくなって便利になると思う。一方で住み慣れた土地を手放す人もいる。複雑な気持ちだ。

 少し前の話だが、私が結婚する前に住んでいたアパートの近くを散歩で通ったときに、道路工事が行われていて、まわりの様子が変わっていた。久しぶりにアパートを見てみようと探したが、どうも記憶どおりの道がなく、歩き回ったがよくわからない。もう一度駅の方向から記憶を辿って歩いてみて気がついた。アパートがあった場所は道路になっていた。私の住んでいたアパートも、隣の大家さんの家もすでに無くなっていたのだ。2年住んだけのアパートだが、少し寂しくなった。