やすぴか日記

日常の出来事と過去の思い出の記録

幼少期に暮らした家の思い出

 私は1963年(昭和38年)生まれであるが、1969年(昭和44年)小学1年生の1学期に引っ越しするまで県営住宅に住んでいた。このころは、ちょうど高度成長期にあたり、白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の「三種の神器」から、カラーテレビ、クーラー、カー(自動車)の「新三種の神器」に移り変わりつつあるころである。とは言っても買えるのは限られた人であり、白黒テレビに「これはカラー放送です」と、テロップが流れていたのを覚えている。そんな時代の思い出話である。

 住んでいた家は、今でいう1階2階のメゾネットタイプのような作りであり、3件がつながっている棟が6棟程度あったであろうか。各戸にはちょっとした庭がついており、庭には物置と父親手作りの向かいあって座れるタイプのブランコが置いてあった。また、我が家は角部屋であったため、玄関から庭に抜ける側道も使えて、道の脇でも遊んだり、祖母が鉢植えなどで花を植えたりしていた。こう書くと高級住宅を想像するが、まったくそうでなはく、外観はかなり老朽化しており、間取りは1階が4畳半と台所、風呂および汲み取り式トイレ(水洗だがタンクに溜めておいてバキュームカーで汲み取りに来るくるタイプ)、2階は4畳半2部屋で、3Kに5人が住んでいたので、大人にとってはかなり狭かったと思う。それでも体の小さな子供から見れば広く感じた。

 この庭の思い出は二つある。一つは物置閉じ込められ事件だ。父親は普段は優しいのだが、怒ると鬼のように怖く、容赦はしない。ある夜のこと、その時何をして怒られたかは記憶にないが、気が弱いくせに我の強かった私は、おそらくわがままを言い張り、言うことを聞かなくて、最後に何かひどいことを言ったのであろう。激怒した父親は、私の手を引っ張って庭に出し、そのまま物置に閉じ込めようとした。私は恐怖を感じ、大声で泣き叫び、「ごめんなさい!もうしません!」を連呼したが、父親は許さない。さんざん泣き叫び、怒鳴られ、物置の扉を閉められようとしたその時、二歳上の姉が「もうやめて〜!Y君を許してあげて!」と大声で止めてくれたのだ。この言葉で父親は少し頭が冷え、物置に閉じ込められることを免れた。ありがとう姉。後日母親に聞いた話では、一部始終を聞いていた向かいの家の知り合いから、「Mちゃんは、なんて心の優しい子なの!」と言われたそうだ。ありがとう姉。

 もう一つの思い出は、サビたブランコ事件だ。ある日私がブランコで遊んでいた時、出っ張っていたクギに腿の内側を引っ掛けて、結構深い傷を負った。これまでは、ちょっとした怪我でも薬を塗って心配してくれたやさしい母親だったので、今回はいつもよりひどい怪我だと思い、台所仕事をしていた母親に訴えると、忙しかったせいか、「つばでもつけておきなさい」と言われ、相手にされなかった。とても痛く、結構血も出ていたのだが、ショックを受けてそれ以上何も言えず、黙ってつばをつけた。そのせいか、60年近くたった今でも、腿にその傷跡が結構目立って残っている。ちなみに数年前、母親が懐かしんで、父親の手作りブランコの話をしたので、その時の話をして傷跡を見せたが、まったく覚えていなかった。

<側道で遊ぶ様子と庭にあった父親の手作りブランコ>