やすぴか日記

日常の出来事と過去の思い出の記録

AIによる創作は人間を超えるのか?「電気じかけのくじらは歌う」を読んで

 「電気じかけのくじらは歌う」(逸木 裕 講談社文庫)を読んだ。最初の予備知識無く読み始めたが、近い将来起こりうる設定で、ストーリーに引き込まれて、長編なのに最後までドキドキしながら読める傑作だった。

 「Jing」と呼ばれるシステムで、AIが聴き手の好みにあった作曲をする時代となり、作曲家のほとんどは廃業し、主人公の元バンドマン岡部も、曲を聞いて人間の感動を「Jing」に学習させる検査員として暮らしていた。そんな中、元バンドメンバーの天才作曲家の名塚が自殺し、岡部ともう一人の元メンバーの益子のもとに、名塚から未完の楽曲が送られてくる。岡部はその謎を追いかけて、ついに真相にたどりつく。AIによる創作は人間を超えられるか、AIと人間が共存する将来の世界のあり方を考えさせられる、近未来のミステリーである

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 私は、現時点でAIがどこまで進歩しているのかはよく知らないが、すでに作曲はできるし、小説も書けるようになっているようだ。この小説の中に出てくる無人タクシーなどは、もうすぐ実現されそうである。AIは将来人間を超える能力を持ち、人間から仕事を奪うなどの警告もされているようだ。

 しかし、以前読んだ本の「AI vs.教科書が読めない子どもたち」(新井 紀子 東洋経済新報社)のなかで、数学者である著者は、AIはコンピュータであり、コンピュータは計算機であるので、今の延長線上のディープラーニングでは、近未来にシンギュラリティ(AIが人間を超える地点)は到来しないと断言している。コンピュータは意味が理解できないため、人間の脳が意識無意識を問わず認識していることを、すべて計算可能な数式に置き換えることができなければ、真のAIはできないとのこと。

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 この小説のように、AIが人間の感情をすべて学習しても、それは感情を計算式に置き換えて覚えただけであって、AIに感情が生まれたわけではない。どんなにAIが進化しても、どんなに能力が人間を上回ろうとも、AIを使うのは人間であり、意思を表現するのは人間である。そして、人間には感情があり、そもそも感情は学習するものではなく、本来人間に「ある」ものだと思う。

 2/20「女神の教室」(毎週月曜日 夜9時 フジテレビ)の中で、裁判の判決をAIに委ねるか否かという授業のシーンがあった。その中で、北川景子は次のように言った。「AIを導入すれば、裁判の正確さやスピードが早まるメリットがある。でも、被告人はAIに裁かれるのをどう思うのか。ただ正しい判断を選択しているだけのAIに裁かれたいと思う人はいるのか。AIは責任を負わない。責任を誰かが背負うからこそ人は判決を委ねられる。」

 AIがどんなことにも瞬時に答えを出しても、その答えに対して判断するのは人間であり、その答えをどう使うかも人間である。人間の感情や意思を込めるからこそ、新しいものは生まれるのだと思う。主人公の岡部は最後に言う。「演奏する人間のことを考え『Jing』に指示をだし続けたピアニストがいたからこそ、その曲が生まれんたんです」

 将来、AIと共存共栄できる世界が実現することを願う。