やすぴか日記

日常の出来事と過去の思い出の記録

「一汁一菜でよいと至るまで」には、まだ早い?

 料理研究家土井善晴著の「一汁一菜でよいという提案」(新潮文庫)と「一汁一菜でよいと至るまで」(新潮新書)を読んだ。

 「一汁一菜」とは、「ご飯を中心とした汁と菜(おかず)」で、「その原点を『ご飯、味噌汁、漬物』とする食事の型」であると言い、」タイトルどおり、前者は「一汁一菜」についての考え方とその説明、後者はフランスでのフランス料理や高級料亭での日本料理の修行をした著者が、料理に関わる様々な仕事や経験のなかで、最終的に「一汁一菜」でよいという結論に至るまでを書いたものである。

 飽食の時代に生まれ育った私たち現代人は、外食が当たり前になり、今ではどこに行ってもコンビニやスーパーで弁当や惣菜が買える。また、テレビやインターネットでは、おいしいお店やおいしい食べ物の情報があふれかえっている。また、共働きが当たり前になった現在、家庭料理に時間を割けなくなっている家庭も多い。

 しかし、本来は「家庭料理こそが、純粋な料理の原点」であると著者は言う。プロの仕事である料理の決まりごとを、家庭料理を作る際も、料理は「こうでなければならない」と縛られてしまっているが、とりあえず、ご飯を炊いて、具がたくさん入った味噌汁を作れば、りっぱな食事になる。具だくさんにすれば、素材から味が出るのでダシもいらなしい、材料をきれいに切り揃える必要もないとのこと。

 家庭料理は、だれが作ってもいいし、だれが食べてもいい。作る人は相手の体調や好みなど、いろいろなことを思って作る。そのため、作る人と食べる人の関係は、愛情を生み、信頼関係を生むのだという。

 最近、私は年齢のせいか、油っぽいものがあまり食べられなくなったり、少食になってきた。また薄味を好むようになってきて、少しは素材の味がわかるようになってきた気がする。これも健康を気遣って料理してくれる妻のおかげであろう。

 しかし、本当においしいものって、いいものを実際に食べて、経験しなければわからないと思う。著者は本の中で、旬の時期に旬の素材を食べようとか、器は気に入ったものを使おうとか言っているが、今やどんな野菜もスーパーに行けば年中売っているし、本当にいい素材やいい器は、その辺には売っていないし、庶民は味も良さも経験しないとわからない。

 ひねくれた見方をすると、著者は長い年月をかけて、おいしいものを料理したり食べたりして経験してきて、そしてそれなりの年齢になったからこそ、この考えに至ったのだとも言える。

 したがって、飽食の時代に育った私としては、著者の域に達するには、「まだまだおいしい料理を食べて、経験を積まなくてはならない」と言い訳をしながら、今日もおいしいお店をネット検索するのであった。

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